近況雑談の過去ログ19(2001年1月)


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01-31 姫路監禁事件の教訓(by 木村太郎) /
ダボスの石原都知事

01-28 KSDのTVCF /「スピーシーズ」
01-27 Nステの小特集(恋文・株・カレー・ジンジャー)
01-22 CD-Rとの格闘終了
01-19 CD-R購入
01-16 フォントサイズ /ポーク味爆弾
01-12 123便事故、遺族の現在 /「聖の青春」2
01-07 Nステありがとうスペシャル /「聖の青春」
01-05 「かくし芸大会」 /映画「コンタクト」

 2001-01-31  姫路監禁事件の教訓(by 木村太郎) /ダボスの石原都知事

 姫路の女子中学生監禁事件、TVニュース(私が見たのはCXスーパーニュースとNステ)では被害者と加害者の接点を意図的にぼやかしている印象あり(30日)。「12月初旬に行方不明」と「12月中旬から監禁」を繋ぐ経緯がすっぽり落ちている。監禁という言葉からは拉致・誘拐が連想されるのだが。スーパーニュースの木村太郎のコメントによると、どうやら「最初(きっかけ)は家出だった」らしい。なんだろこれ。被害者側への配慮でTV報道では家出についてはネグっているのか?
 木村太郎は「昨今『プチ家出』などと家出をファッション化する向きもあるが、渡る世間は鬼ばかり。世間は恐いということを知らしめる、若い女性に教訓の多い事件である」(大意)とコメント。お気楽に家出していると犯罪に巻き込まれかねないぞと警鐘鳴らすのはいい。しかしお説教にもTPOがある。女子中学生を1カ月近く監禁して暴行を繰り返し、1週間トランクに押し込めて水しか与えていなかったというよーな異常な凶悪事件の、その第一報で言うべきコメントではないだろ、これ。

*  *  *

 30日のNステのダボス会議レポート、前フリの「“No”と怒った男」ってなんだったんだ? ダボスで石原都知事はご立腹だったらしいが、本編では石原のイの字も出てこずじまい。が、番組を見ている時にはそのことに気づかなかった。途中の、雪の路上で傘さしながら歌う鳩山夫人の後姿(辻元議員撮影)に気をとられて前フリのことなんか頭から飛んでしまって。なんだったんだろ、あの「♪ラッタッタッタタララララ〜」って歌(笑)。

 WEBをサーフしていたらダボスでの石原都知事に言及する記事にぶつかった(で、石原都知事がなぜ怒ったのかNステでは全然放送していないことに気づいた)。
 またぞろ、とんでもない演説をぶったらしい(記事自体が石原批判なので、記事中の石原演説の要旨は鵜呑みにはできないが)。

 ・参照:→ [aml 20770] 〈石原都知事批判〉ダボスでの暴言


 追記 (2001-02-01)
 上でリンクした石原批判はダボスでの石原演説の骨子4点を挙げているが、「各紙の報道から〜引用する」として出典は明示していない。念のため但し書きを付けておいたのだが、元記事の一つが見つかった。「引用」という言葉どおり、石原演説の要旨は元記事の忠実な引用となっている。
 (毎日の記事では1[不法入国者]と3[首都機能]のみ報道。2[北朝鮮]と4[グローバルスタンダード]は他社の記事から拾ったらしい。)

 ・ 石原都知事が外国人不法入国者の犯罪対策を強調 毎日 2001.01.27)

追記 (2002-08-31)
 毎日の記事データベースは検索結果のURLが動的で日が経つとnot foundになってしまう。当該記事へは「石原都知事 外国人不法入国者 犯罪」で記事検索すればアクセスできる。
(上のリンクも無効ならば、毎日のトップページの検索フォームから。)

 30日のNステのダボス・レポートの前フリでは「もうこんな会議には来ない」と不機嫌にブータレる石原都知事の映像に「“No”と怒った男」というテロップが乗っていた。上の雑談を書いた時には自分の演説が不評でご立腹かと想像したのだが、毎日の記事から判断すると、テロップの「怒った」というのは演説の内容を指し、「もう来ない」というのは演説とは関係なく、参加した分科会がつまらなかったと不満を漏らしたセリフであるらしい。
 紛らわしい作りの前フリVだなあ。それはともかく、なんで本編(&解説者コメント)では石原演説に全然ふれなかったんだろう? 触らぬ神に祟りなしだが、視聴率稼ぎに石原の顔をちょっと出した?(←ゲスの勘ぐり)



 2001-01-28  KSDのTVCF /「スピーシーズ」

 古関前理事長の背任容疑から始まったKSD事件は、政治家の受託収賄疑惑、額賀大臣の去就、額賀大臣が辞任した今は他の大物政治家に追及の手が及ぶか否かに焦点が移っている。という状況のなかで、今ごろこういうこと書くのは恥ずかしいのだが、書きとめておく。
 KSD前理事長が私物化した資金を親しい演歌歌手に入れあげていたとの報道が一時(約2カ月前)よく流れていた。この歌手ってKSDのTVCFに出ていたあの女性か、と今ごろになって気づいた。田中邦衛演じる中小企業社長が仲間と小料理屋で呑むバージョン。女将が「KSDもいいけど、この歌もいいでしょ」と唐突に演歌CDの宣伝をするという実にシュールなCMだった。背任容疑報道(演歌歌手にも私的に云々)を見ればすぐピンときそうなものだが。自分の鈍さに、呆然とする思いである。(--;)

 TVで映画「スピーシーズ」鑑賞。それなりに金はかかっているはず。映像はチープではない。特撮はよく出来ているしエイリアンのデザインはギーガーだし。しかしシナリオが安物のTVドラマ並み。演出も下品。かつて「エイリアン」の大ヒットに便乗してエログロを強調したイタリア製C級SF映画がいろいろ作られたが(マカロニSFだな)、これはその手のC級作品に近いものだった。



 2001-01-27  Nステの小特集(恋文・株・カレー・ジンジャー)

 仕事を終えて勝鬨橋で一服。カモメの群れが強風のなか、大きな螺旋軌道で高空に昇ってゆく。風上に向かって静止し、ゆっくり向きを変えると風下に一気に滑空してまた戻ってくる様が面白くて川辺に立って眺めていたら体が芯まで冷えてしまった。

 16日の項で「久米宏の言動が妙に硬い」と書いたが、16日(火曜)以降は昨年と同じ軽めのノリに戻った。先々週(8〜12日)や15日の放送からは路線変更の気配を感じたのだが、これは私の思い過ごしだったようで。

 今週末、夕方のTVニュースで中坊公平が不祥事の責任をとって整理回収機構の顧問を辞任という報道が流れた。整理回収機構の不祥事といえば8日のNステで「整理回収機構に関する報道に事実誤認があった」との訂正とお詫びがあったっけ。昨年末のNステの報道は一部に事実誤認はあったものの(中坊社長[当時]の関与の有無?)、大筋で誤報ではなかったということか。Nステではこの中坊辞任を報じなかった(見逃した可能性あり)。
・参照:→ 中坊氏、整理回収機構の顧問辞任 回収で不適切行為 (CNN.co.jp 2001.01.26)

訂正  住管機構 → 整理回収機構。(不祥事のあった97年当時は住管機構)
なお、お詫びについての憶測は間違いだった。2月7日の項を参照されたし。(02-07)


 以下、Nステの小特集について4連発。
 23日の恋文特集、なにかの賞で最優秀作となった「恋文」を渡辺真理嬢が朗読したが、ああいう未成熟な作り物っぽい文章(恋文というより詩)の朗読は上山アナの方が適任だったような。ポキポキ溌剌とした読みの方が青臭さが鼻につかない。

 24日の株特集(森永卓郎の「わからないなんて言わせない」)、森永氏の迷言続出で面白いといや面白かったが、しかし「いずれ必ずインフレが来る。その時に備えて株について学んでおきましょう」というのは強引だなあ。ま、それはいいとして。学ぶだけなら特集でも取り上げていた株売買シミュレーション・ゲームで十分なのに、「ペットを飼う感覚で株を買おう」などと勧誘までするのは抵抗を感じる。コメンテーターが株屋の営業するなんて、ねぇ。

 26日のカレー特集、編集に疑問あり。上山アナにコスプレ(サリー&装身具)させてるのに、その姿をほんの数秒上半身しか映さない(放送しない)なんておかしい。取材先に衣装を借りて(別カットで同じ衣装を着たコンパニオンが映っていた)撮影する以上、全身カットも含めてもっと撮ったはず。なんで没にする。ケチ。

訂正  コスプレ姿、下半身も映っていた。(02-16)

 同じく26日のジンジャー・ニュース(17日の続報)。まともな追加情報が無いのになぜ第2弾を放送する? なんでドクター中松の便乗会見に10社ものマスコミが取材に行く? ジンジャーの謎は解明されずマスコミへの疑問は深まるばかり。もしかして日本のマスコミはジンジャーのことを、ドクター中松レベルのものと見なしているということか?

 ブータレてはいるが、Nステを見続けているのはこういうお遊び企画があるから。KSD受託収賄、官房機密費流用、連日の幼児虐待、瀕死の有明海、……こんなのばかりだったら、とても見ていられない。



 2001-01-22  CD-Rとの格闘終了

 CD-R導入にまつわるドタバタに、ようやく決着がついた。
 CD-Rのライティングソフトは書き込み前にトラックイメージを生成する。このため、HD上に大量の空きスペースが必要となる(ライティングソフトのマニュアルには「約1GB必要」と書いてある)。が、そもそも私がCD-R購入に踏み切ったのはHDの残り容量の欠乏に対処するためなのである。HDに空きスペースを作りたいが、その作業をするための空きスペースが無い。はっは、皮肉な話だ。一文無しでは自己破産さえできないってか。しょーがないので、Track at onceで数十M単位の追記書き込み&HDからの削除を繰り返して漸次転送量を増やして900M程度の空きを作った。これでまともなライティングができる。が、900Mもの空きができた時点ですでにCD-R購入の所期の目的は達成できているんだったりして。どこまでも皮肉な成り行きである。意地で先に進むことにし、いったんCD-Rに退避したデータを分類し直した形で新たに別のCD-Rに焼き直す。再整理を終えてHDをデフラグすると(このデフラグには半日かかった)、2G以上の空きスペースができていた。今回はこのへんで勘弁してやることにする。

 上の記述を読んで、CD-Rの知識のある人は笑うかもしれない。「空き容量が足らないならオンザフライで焼けばいいだろ」。しかり。私もそのつもりだった。一応、CD-R購入前にちょっと勉強して、そういう焼き方があることは知っていた。が、いざやろうとすると、ライティングソフト(WinCDR)の「オンザフライ書き込み」のチェックボックスがグレーアウトしていて選択できないんである。うっきー? で、仕方なく上記の方法を採った次第。
 「オンザフライ」選択不可の原因が判明したのは作業2日目。環境設定で「上級者向け詳細設定」をチェックすれば「オンザフライ」を選択できるようになることに気づいた。マニュアルにちゃんと書いておいてくれよぅ。いや、書いてないこともない。「上級者向け設定:チェックすると、すべての設定を行うことができます」との記述はある。事情が判明してから読めば、理解できる。しかし、わかんない状態の人間が読んでもなんの助けにもならんぞ、この書き方では。ここをチェックすると何ができるようになるのか、くどくどしつこくうんざりするほど懇切丁寧に羅列しておいてくれよぅ。あたしゃ上級者どころか購入1日目の入門クラスだもん、恐れ多くてこのチェックボックスはとーぶんいじらないつもりで無視してたんだぞー。(2日目にはいじってしまったが。)

 HDには充分な空きスペースができた。が、マシン環境は思わぬ傷を負うことになった。エクスプローラ(Windowsのシェル)が、ちょっと重めの作業をさせるとすぐに黙り込んでしまうようになったのである。空きスペース確保作業の段階で、何度か(トラックイメージの生成で)システムドライブの空き容量が0近くになったのだが、その時どこかが壊れたのかも。どこかってどこ? どこなんだろうね。どこだかわかんないけど、Windowsにとって大事などこかなんだろうねえ。まあ、仕方ない。私にとって大事なものはあらかたCD-Rに退避あるいはバックアップしてあるから、いざとなりゃOSの再インストールだ。

 本来の目的は達したものの、今私は虚しい気分に陥っている。CD-Rをもっぱらデータの退避用・HDのバックアップ用として購入するというのは、贅沢な買い物なのかもしれない。700MのCD-R数枚にコピーしてしまえば作業は終わり、大枚はたいて購入したCD-Rドライブには、当面やらせるべき仕事がない。読むだけならCD-ROMドライブで充分だし。さて、この空白感を何で埋めたものか。なにか、とんでもないバカ食いを始めてしまいそうな予感。無理なダイエットをしてもすぐリバウンドしてしまうそうだが、それと心理的に同じメカニズムが働いているのかも。(違うだろ)

 余談。緊急避難的にHDに空き容量を作るためには、上記のようなライティングソフトでの追記書き込みよりパケットライトの方が簡単でスマートか。私がこれに思い至ったのは作業が山場を越えた3日目。良い智恵は常に後からやってくる。



 2001-01-19  CD-R購入

 HDの残容量が心もとない。金は無いが、近々必ず必要になると腹をくくってCD-Rを購入した。ちょっと決断が遅かったかも。HDの空き容量が足らず、てんやわんやの大騒ぎ。(--;) 詳しくは後日。



 2001-01-16  フォントサイズ /ポーク味爆弾

 先日、ゲストブックで「フォントサイズが少し小さい」とのご指摘をいただいた。本文のフォントサイズをスタイルシートで絶対指定(固定)していることには前々から後ろめたいものを感じていたので、指定を外すことにした。これにより、ネスケ(のデフォルト・フォントサイズ)ではほとんど変化はないが、MSIE(のデフォルト)では字がふた回り大きく表示されるようになった。サイズは可変、お好みの大きさで閲覧されたし。詳細は製作メモ参照。

 ベランダの蛇口を少し緩めて下に置いたバケツに常に水滴が垂れるようにしてある。猫用の水飲み場である。月曜の昼前、そのバケツの水が凍っているのに気づいた。凍結した水面から上の蛇口に向かって約15センチほどの氷柱が屹立している。こういうの、逆さツララとでも言うんだろうか。昨日も今日も寒い。東京は3日連続で氷点下を記録したそうな。

 味の素の事件を伝えるTVニュースでイスラム教徒のインタビューが流れた。豚は彼らにとって「おぞましい、汚らわしい、見るのも嫌なもの」なんだとか。豚を食べてはいけないというのは知っていたが、それほど強烈な禁忌だったとは意外。
 豚がそれほどの禁忌なら……「コーランか剣か」なんて言われても全然恐くないような。国境に豚足でも並べておけばイスラム教徒は一歩も入ってこれない。イスラエルも核武装する必要はない。核弾頭の代わりに豚骨スープの素でも詰めておけば、アラブの国土を豚味に染める恐怖の最終兵器となる……わきゃないか。

 Nステ、年頭に「ありがとうスペシャル」で派手なバカ騒ぎをした反動が来ているのか、久米宏の言動が妙に硬い。先週の扇大臣生出演では昨年とは別人のような、攻撃的と言ってもいいようなインタビュー態度であった。かと思えば今週は逆にテンションが低い。これはあくまで印象であって、見ている私の側の問題かもしれないが。



 2001-01-12  123便事故、遺族の現在 /「聖の青春」2

 5日のNステ「ありがとうスペシャル」では、後半、日航123便事故の遺族の現在を伝える特集があった。大変良かった。長年の気がかりが解消されて、個人的にもありがたいものだった。
 事故の犠牲者が残した遺言はどれも短いが、それぞれの思いが強烈に刻印されている。とりわけM氏の遺言の最後の2行「哲也/立派になれ」には、赤の他人である私でさえ頭の芯が痺れるような衝撃を受けた。哲也君は2歳。成長して、父親が極限状況の中でこういう言葉を自分に遺していたことを知ったら、重荷、呪縛ともなりかねないのではないか、と当時は思った。
 15年後の今、当の本人は立派に、明るい少年に育っている。良かった良かった。気張らんでもええ、そのままで充分オッケーやで。


 TV版「聖の青春」には、奨励会入会試験に合格したにもかかわらず、地元の大物棋士から横槍が入って聖少年の入会が1年遅れてしまうというエピソードがあった。入会試験を受けるためにはプロ棋士の弟子にならねばならないのだが、聖少年を誰の弟子とするかで確執があったらしい。原作本でどこまで具体的に書いてあるのかは知らないが、よくTVドラマで採用したなあ。関係者から「この逸話は省略してくれ」と要望が出そうなものだが。7日の項を書いた後、試しにWEBで検索してみた。
 神崎健二六段が、WEB日記でこの件にふれている。→ 神崎健二六段のホームページ

 筒井康隆『夢の木坂分岐点』(新潮社)を読んでいる。タブレット(人名の1字を次々置き換えて別の人名に辿り着く西洋の言葉遊び)が仕掛けに使われていて、メモしながら進まないと後半でワケわからなくなりそうな予感あり。あれこれ考えさせられてしまって何度も中断を余儀なくさせられる。面白いのだがなかなか先に進めない。



 2001-01-07  Nステありがとうスペシャル /「聖の青春」

 食糧調達に外出して二千円札を入手。この新札の存在はすっかり忘れていて、レジで渡された時は五千円札かと思った。帰路、雪が降り始める。

 TVばかり見ている。
 5日のニュースステーション15周年「ありがとうスペシャル」は、……。
 TVを見てあれこれ文句をつける雑談ばかりでは情けない。新世紀には少しスタイルを変えようかと思っていた。が、気づけば新春早々「コンタクト」にブータレている私。これではいけない。美点にも目を向けるようにせねば。ましてやめでたい15周年のスペシャル、ご祝儀をはずむのが大人の態度というものである。え〜っと。渡辺真理嬢と清水コメンテーターの宅配ニュースで真理嬢の背後のTVに放送画面が映って合わせ鏡のようになり、その入れ子状の映像がコンマ数秒ずつ遅延して動く光景はとても新鮮で良かった。
 (日航123便事故の遺族の現在を伝える特集については、後日。)

 6日はTBSのドラマ「聖の青春」を見た。若くして亡くなった将棋の天才棋士村山聖を描いたもので、原作はかなり売れたらしい。村山聖については2年前にテレ朝のノンフィクション「驚きももの木20世紀」が取り上げている。その描き方にはかなり違和感を覚えたのだが(99年1月30日の雑談参照)、「聖の青春」はTVドラマということもあってか、私の抱いていた村山聖のイメージからはさらに乖離したものとなっていた。村山を演じるのが美少年俳優の藤原竜也であることなどはドラマである以上文句をつける気はないんだけど。
 私の抱く村山のイメージは将棋雑誌の観戦記やゴシップ記事で作られたものだ。「聖の青春」や「驚きももの木20世紀」が描くように村山が名人になることを悲願とする棋士だったとすると、あれらの専門誌・紙の記事は、人間村山の真実をろくすっぽ伝えていなかったということなんだろうか。

 6日夜は「マルタイの女」鑑賞。……良い出来だと思う、「スーパーの女」と比べれば。



 2001-01-05  「かくし芸大会」 /映画「コンタクト」 (01-06追記)

 この項、映画「コンタクト」のネタバレあり。未見の人は読まない方がいいかも。


 元日は友人宅で過ごした。正月の東京都心部は大混雑だと思い込んでいたのだが、渋谷周辺は閑散としていた。混むのは神社周辺だけか。
 訪問客のなかに「新春かくし芸大会」の制作に関わった人がいて、その裏話を聞くうちに実際の放送を見てみようということになりTV観賞。ある演目は審査員が試しにやってみたらうまく出来てしまうというハプニングで盛り上がったそうだがそのシーンは全部カットされていた。また、ある演目では会場が重苦しい空気に包まれたそうだが、放送では短く編集されていてそれほどひどい出来には見えなかった。点数は低かったが。点数が低いといえば某女性タレントが点数の低さに怒ってスタジオを飛び出したが、あれは“お約束”の演出ではないらしい。一時行方不明になってスタッフが困惑していたとのこと。(^^;) 他にもいろいろ興味深い裏話が聞けたのだがどこまで書いていいのかわからんので自粛。

 昨年暮れに書いた「恐怖の眉」のことがひっかかっている。年末にビデオを見直してみて新たな疑問が出てきた。元日に訪ねた友人はデザイナーでビジュアル関係の資料を多数保有している。表情分析学についても何か資料を持っているかと期待していたのだが空振りであった。

 TVで映画「コンタクト」鑑賞。金かかってるんだけどなあ。ジョディ・フォスターは素晴らしいんだけどなあ。無神論者の科学者、篤信家を装う科学者、神学者くずれの物書き、テロも辞さないカルト、そしてクライマックスの超時空体験を巡る異端審問じみた聴聞会。実験の真相は「信じるか否か」に収斂しえない事柄なのに。“信仰”にこだわり過ぎ。物語の前半部で主人公は、知的生命にとっての共通言語は数学(科学)だ、と大見得切っているのに、科学者生命のかかった(最大限科学者らしく振舞うべき)人生最大の勝負所では一切、科学の言葉を語ろうとしない。神秘体験の洗礼を受けてあえなく転向してしまったかのよう。
 原作者カール・セーガンは地球外生命とのファーストコンタクト“以後”の成り行きについては、科学の言葉では語り得ないものとして、癒しの物語にしてしまったんだろうか。映画は、原作の小説とは別物になっているのかもしれないが(*)。 (癒しには違いないが……、幼い頃のトラウマを衝く心理操作にも見えるぞ、あのシーン。)
 余談。聴聞会の後になって「ビデオには18時間分のノイズが記録されていた」ことが判明する。観客は主人公が一瞬のうちに見た夢に付き合わされたわけではないと安堵する仕掛けだが、これを見て邦画の「緯度0大作戦」のエピローグを連想した。異世界からの帰還者の体験談の信憑性をかろうじて保証する、ひとひねりした危うい証拠(確証ではないが、観客にとっては充分なもの)の後出し。これは古典的な手法なのかも。

(*) 追記。WEBで「コンタクト&セーガン」を検索してみた。書評や映画評、原作と映画版の比較批評など参考になるWEBページがいろいろある。クライマックスの描写は映画と原作の小説とではずいぶん違うものになっているらしい。

思い出したこと一つ追記。「知的生命の共通言語は数学」という主人公のセリフは、研究所に乗り込んできた軍人の「異星人が高度な知性を持っているというのなら、なんでやつらは英語でメッセージを送ってこないんだ?」という愚問に呆れつつ発せられたものだが、主人公が超時空を旅して対面した異星人はいきなり英語を話す。主人公は「私の記憶をダウンロードして再構成したのね」の一言で理解・納得してしまうのだが、なんだかこれは人をくった冗談のようだ。作者が意図したシャレかどうかはわからないが。(01-06)



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