TV雑記



2004-08-03 ポー先生の教え@「燃えよ!カンフー」

 「燃えよ!カンフー」は、恩師を助けるために皇帝の親族を殺めてしまった少林寺の僧ケイン(米中のハーフ)が、国を逃れ、兄を探して1870年代のアメリカ西部を旅する物語(製作は1972年〜)。東洋から来た寡黙な旅人は行く先々で侮りや好奇の目に迎えられるが、彼の拳法は粗野な無法者たちを叩き伏せ、彼の高潔な人柄は善良な人々を魅了し、人々や彼自身を救う。エピソードの随所にケインの修行時代の回想(多くは老師との哲学問答)が挿入され、争いを好まないがその内に高い戦闘力を秘めるケインの生い立ちと“神秘的な東洋思想”が少しずつ語られてゆく。

 特殊な技能・能力を持つ“お尋ね者”があるものを求めて旅をし、人々との出会いと別れを重ねてゆくというのは往年のアメリカTVドラマの黄金パターンだが(「逃亡者」、「超人ハルク」など)、西部劇の主人公を少林寺の僧にするとは思い切った企画である。アメリカでは大ヒットしたらしい。

 新奇なものが好まれるにしても、予備知識が欠けていたりあまりに価値観に隔たりがあれば理解も共感も得られない。“本場モノ”が常に歓迎されるわけではない。ヒッピーにウケるに留まらず大ヒットしたということは、当然のことながら、70年代のアメリカの視聴者にウケるようにアレンジされた“東洋の神秘”であったわけだ。

 というようなことを、第11話「Chains」に挿入された回想シーンを見て思った。

ポー師
どっちが悪なのかな? ネズミは穀物を盗むのが商売だ。ところが猫はネズミを殺すように生まれついている。
ケイン
ネズミは盗みます。でも、ネズミにとって猫は悪です。
ポー師
猫にはネズミが悪だ。
ケイン
ではどちらも悪ではないのですか?
ポー師
ネズミは盗むのではない。猫は殺すのではない。雨が降る、川が溢れる、が、山は沈まぬ。一つ一つが自然に適っているのだ。
ケイン
では悪はないのですか。何をしてもそれがその人にとって善なら、許されるのですか。
ポー師
コオロギ(*)、人は自分に都合のいいことだけを言う。しかし宇宙にはその人間一人が住んでいるわけではあるまい。
ケイン
私に悪をなす者を私が懲らしめれば、二度としなくなるかもしれません。
ポー師
懲らしめなければどうなるかな?
ケイン
好きなことをしていいのだと思うでしょう。
ポー師
そうだな。だがもう一つ、悪に報いるに即ち善をもってする、その心も教えるのだ。

(*) ケイン少年が少林寺に入門し盲目の老師ポーと初めて出会った時、少年の足元でコオロギが鳴いていた。以来、ポー先生はケインをこの愛称で呼ぶ。

 ネズミから宇宙まで自在に喩えを引きながら語られる少林寺の老僧の教えは、「悪に報いるに即ち善をもってする」という新約聖書的なフレーズで締め括られる。アメリカの視聴者は毎週少林寺の師弟の問答を見て、仏教(禅)というのも結局キリスト教の教えと似通ったところに辿り着いている思想・宗教なのだな、と気持ちよく“理解”を深めていたのだろうか? なんて、ちょっとヒネた思いが頭に浮かんだのである。

 試みに音声を切り換えて聴いてみると、ポー先生のセリフは英語版では以下のようであった。

Master Po
Perhaps. Or perhaps, he will learn that some men receive injury but return kindness.

 おや。新約聖書的なフレーズだと感じたのは日本語版の訳のせいか。この問答での「善」、「悪」はそれぞれgood 、evil なのだが最後のポー先生のセリフのみ、上で引用したようにinjury(損害)とkindness(親切)になっている。オリジナルはこの箇所で聖書を連想させる単語は避けたのだろうか。どうもよくわからない。わからないといえば、ポー先生のセリフもオリジナルだと茫漠としている。

 「たぶん(おまえの言うように、害をなす者を懲らしめなければ彼は好き放題し続けるかもしれない)。だがもしかすると(何もしないことによって)、世の中には損害を被ってもなお親切で応える者がいることを、彼は学ぶであろう」

 我流で訳すと上のようになるのだが、なんだかすごく生ぬるいぞ少林寺。親切ってなんだ親切って(笑)。説得力を感じないのは私の誤訳のせいかもしれないけど。


 悪をなす者に対し如何に処すべきか、仏教がどう説いているのかは知らない。東洋思想のもう一つの源流、孔子は次のように説いている。

三六  或曰、以徳報怨、何如、子曰、何以報徳、以直報怨、以徳報徳、

ある人が「恩徳で怨みのしかえしをするのは、いかがでしょう。」といった。先生はいわれた、「では恩徳のおかえしには何をするのですか。まっ直ぐな正しさで怨みにむくい、恩徳によって恩徳におかえしすることです。」

出典:『論語』(金谷治 訳注、岩波文庫、巻七 憲問第十四、p.203)

*  *  *

 と、ここでこの雑文は終えるつもりだったのだが。ネット検索で『論語』の英訳を見つけ、上で引用した箇所を読んでみて驚いた。

14-36
Some one said, "What do you say concerning the principle that injury should be recompensed with kindness?"
The Master said, "With what then will you recompense kindness?"
"Recompense injury with justice, and recompense kindness with kindness."
或曰、以徳報怨、何如、子曰、何以報徳、以直報怨、以徳報徳、

出典: 憲問 第十四論語中村学園大学電子図書館

 injury とkindness がいっぱいだ。そうか、この章の「怨」、「徳」を英訳するとinjury 、kindness になるのか。うぅむ。

 ポー先生の言葉を「新約聖書的なフレーズ」と評し、オリジナル(英語版)を聞いて「『親切』ってなんだ」なんて失礼なことを書いてしまったが、ポー先生のセリフ(用語法)は(英訳された)『論語』を踏まえたものだったのかもしれない。侮ってはいかんのだなあ。

 用語法にはそれなりの根拠があるらしいことはわかったが、さて、では、“悪をなす者を罰しないことによって、もしかすると、世の中にはinjury(損害)を受けてもkindness(徳?)で応える者がいることを、彼は学ぶであろう”というのは、少林寺の僧の教えとして妥当なものなのか?

 疑問は依然残るが、私の手には余るのでこれにておしまい。

*  *  *

 ポー先生のセリフをネット検索してみたら「“Kung Fu”:TV Series Episode Guide」というサイトでこの問答が採録されているのを発見した。下の参照リンクに入れておく。回想シーンの問答全体が英語版ではどうなっているのか、確認したい方はこのサイトを参照されたし。(一部単語が抜けていたり異同があるが、大筋で問題なし)



参照リンク



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