田口ランディが文藝春秋に営業をかけているとの情報が昨年の春頃から2ちゃんねるの盗作作家監視スレッドで流れていた。これは関係者のリークであったらしく、実際に昨年12月には「オール讀物」(1月号)が短編を掲載した。その後、今年に入って3月号でも短編が掲載され、さらに「文學界」8月号ではエッセイ(?)の連載がスタートしている。
小説三部作のうち二作が盗作発覚で絶版となり盗作研究本まで出ている“作家”に、盗作報道から1年も経たぬうちに発表の場を与えるとは呆れたもんである。文春社内には田口ランディに何か個人的な弱みを握られた編集者でもいるのだろうか?
先日その「文學界」掲載のエッセイ(?)をちょっと立ち読みしてみた。開始早々3段落目でまたまた能天気に「カミサマ」を持ち出している。やれやれ。
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先月下旬、盗作作家監視スレッド Part53(一般書籍@2ch掲示板)に、「田口ランディは最近文藝春秋に擦り寄っている、近いうちに賞を受賞するかも」、「(幻冬舎はランディを放り出したが)今は文藝春秋がイチオシしている」との投稿あり。
これに対して、田口ランディは以前、
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「賞は欲しくない。勝手に候補にされて勝手に落とされるのはなんだかすごく腹が立つ」云々と書いている
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「芥川賞も直木賞も欲しくないので候補にしないで欲しいと頼んだ、二度と候補になることはない」と発言している
との指摘がされた。前者は筑摩のサイトに掲載されていたWEB日記(『くねくね日記』)の01年8月12日分、後者は、自称“スーパーエディター”、ヤスケンこと故・安原顯の02年2月21日のWEB日記。
前者は『モザイク』が直木賞を落選した直後の発言であり虚勢を張っているだけともいえるが、後者は、『モザイク』の盗作がマスコミで報じられた5日後のものである。盗作を恥じて以後ノミネートは辞退するというのならともかく、「賞は欲しくないので候補になるのも断わる」とはあまりに厚顔無恥な物言いだが、それはさておき、この再発掘されたヤスケン日記には候補を辞退云々の直前に気になる記述がある。
田口さんは、「表現者」とは、面白いもの、無名のアヴァンギャルドを喧伝するのが務めと考えるが、日本の表現者でそれをする人はいないに等しい。
自分は渡邊哲夫『知覚の呪縛』をちくま学芸文庫に入れてもらったが、次は『終らなかった旅』(晶文社)を、さらには大森正藏の本なども文庫化したいとも語った。
出典:ヤスケンの編集長日記(02年2月21日)。
気になる点については後述。まずはおさらいをしておく。
上の引用中にある渡辺哲夫氏の『知覚の呪縛』は、一時は“第三の盗作報道”の発火元になるのではと目されていたものである。結局これは不発に終わっているのだが、盗作研究本を読むと、当事者間の交渉・取引で問題がもみ消された疑いが濃い。
パクリを黙認してもらう代りにパクリ元の本を文庫化させる、そんな裏取引でもあったのか? 渡辺氏に聞いてみると、「去年の一月くらいから筑摩の方が、お会いしたいということを言われまして」とのことでやはり用意周到なランディのパクリ工作が窺える。
「田口さんの本の中で私の『知覚の呪縛』についての記述がありましたが、単純に嬉しい驚きですよね。盗作みたいな話もありますけど、田口さんと私の間では、書いて当たり前みたいな雰囲気がありましたから……」「本も売れましたし……」
出典:「徹底追跡! 田口ランディとその周辺」、星野陽平(『田口ランディ その「盗作=万引き」の研究』、鹿砦社、p.33)
「単純に嬉しい驚き」という言葉には疑問が残る。というのは、渡辺氏は文庫版あとがきでは以下のように書いているのである。
さらに私自身かなり驚いたのであるが、ごく最近になって田口ランディ氏が小説『モザイク』(幻冬舎、二〇〇一年)のなかで一精神科医に「知覚の呪縛」について語らせている。まったく意外な発見であった。本書はインターネット世代へと解放されてゆくのかもしれない。
出典:『知覚の呪縛』、渡辺哲夫、ちくま学芸文庫、p.219-220
[引用は「『万引き』疑惑、原典との文章対比一覧」、baud rate R.A.(『田口ランディ その「盗作=万引き」の研究』、鹿砦社、p.241)から]
「書いて当たり前みたいな雰囲気」というほど親密な間柄であったなら、なぜ渡辺氏は「ごく最近になって」「まったく意外な発見」をすることになったのか?
知人の著書名を小説中に登場させただけのことであれば事前に了解を得ず事後に知らせもしなかったとしてもなんの問題もない。しかし、いくら親密な間柄であれ、他人の著作から無断で、盗用が指摘されるほどに類似した設定・記述(*)を使うというのは反則である。単行本『モザイク』は参考文献として『知覚の呪縛』を挙げてさえいない。
筑摩で自著を復刊してもらって渡辺氏が満足しているのなら法的に問題になることはなかろうが、しかし読者の立場から見れば、これは依然として“パクリ元と話をつけて訴えられる可能性を消した盗用”の疑いの濃い事例である。
(*)
類似箇所については盗作研究本を参照のこと。『知覚の呪縛』と『モザイク』、『知覚の呪縛』と『コンセント』の文章比較が行なわれている(p.241-246)。
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長くなったが、ここまではおさらい。監視スレッドをワッチしている人や盗作研究本の読者には周知のことである。先月下旬の田口ランディ語録再発掘を目にして私が気になったのは、ヤスケン日記の中に「大森正蔵」(荘蔵の誤記であろう)の名が見えることである。
上で見たように、渡辺哲夫氏の『知覚の呪縛』にはパクリ元にされたのではないかとの疑惑があった(ある)。筑摩に働きかけて渡辺氏の著作を文庫で復刊させたという自慢話の中で田口ランディが「大森正藏(ママ)の本なども文庫化したいとも語った」とは、実に気色の悪い話である。
大森荘蔵は97年に亡くなっている。岩波からは著作集が刊行されている。事情はかなり異なる。渡辺氏とともに大森の名が挙げられているからといって同じに考える(疑う)ことはできないし、実際に酷似した表現・設定・文章を発見したわけではないのでこれ以上どうこう言うのは差し控えるが、「万引き常習犯」の言葉なだけになんとも嫌な引っ掛かりが残る。
田口ランディが今後も出版界に居座り続けるようなら、いずれ、大森荘蔵の著作との比較検証を行なう必要があるかもしれない。
余談1。以前雑談でもふれたが、哲学者・大森荘蔵の論考は平易で読みやすい文章で、魅力的な比喩や常識の虚を衝く知見が散りばめられている。例えば他我問題を論ずる際に提示される「全盲の達ちゃん」を巡る逸話、共通の腸をもつシャム兄弟が同時に腹痛を感じても互いに相手の腹痛を知ることはできないという喩え、「感情は知の一形態」仮説、等々(『時間と自我』より)。軽めのエッセイを書く人でも、まっとうな引用あるいは紹介という形で大森の言説を引き合いに出している人は結構いそうな気がする。
余談2。ちくま学芸文庫には大森荘蔵の『知の構造とその呪縛』が収録されているが刊行は田口ランディが“作家デビュー”する以前の94年。ということで文庫化には関与していないはず。
余談3。田口ランディが「文庫化したい」と言った時に念頭においていた大森の著書は何なのか。いくら非常識な人とはいえ、現に流通している既刊本を他社で文庫化させようなどとはしないだろう(著者が存命で文庫化を希望するなら話は別だが)。流通状況はどうなっているのか。Amazonで大森荘蔵を検索してみた。共著・編集物も含め42件ヒットする。
品切になっていて、かつ、田口ランディが「文庫化したい」と言いそうなものは……見当たらないなあ。『新・岩波講座 哲学』シリーズとは考えづらい。『音を視る・時を聴く―哲学講義』(朝日出版社、坂本龍一との対談)、『ライフサイエンスにおける言語・意識・生活』(共立出版、角田忠信らとの共著)あたりか?
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