養老孟司@NHK



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 2003-11-22  編集に異議あり〜「人に壁あり・解剖学者・養老孟司」@NHK

 8月初旬、養老孟司の『カミとヒトの解剖学』(ちくま学芸文庫)を読み始めたのだが波長が合わない。歯切れは良いのだが記述や用語が微妙に私の知識・イメージとズレていて、断定口調がなんらかの資料・知見に基づくものなのか養老氏の私見なのか判断できない箇所が多々ある。読み進んでも疑問は解消せず、ストレスが溜まる。うんざりして途中放棄。

 巻末を見ると南伸坊が解説で絶賛している。表題は「この本はおもしろい」。“面白本位主義”の本家南伸坊が「おもしろい」と言うんだから、おもしろいはずだ。私は養老氏の著作を読むのはこれが初めてなのだがどうも読み方を誤ったらしい。この本は学者の書いた論考としてではなく、放談エッセイの類と見なしててきとーにおもしろがって読むべきものなのかも。と反省しつつ、今も放置したままとなっている。


*  *  *

 9月6日(土曜)、NHKのETVスペシャル「人に壁あり・解剖学者・養老孟司」 を途中から観た。養老氏は挨拶のできない子供だったのだが、これは幼児の頃、父の臨終に立ち合いながら最後の言葉をかけられなかったことと関係があると四十代になって初めて気づきぽろぽろ涙をこぼしたという体験談(*1)や、講演での「死体には3つの種類がある。存在しない死体、死体ではない死体、死体である死体」(*2)という話など、養老氏の語る言葉は率直で含蓄があり、話しぶりも達者であった。

(*1) 周囲の大人に勧められても別れの挨拶をしなかったのは、それが父の死を受け入れることになってしまうから。しかし別れの挨拶さえしなければ父の死を否定できるなどというのは、はっきり意識してしまえば幼児にも無理な理屈であることはわかる。それで理屈は意識されないまま(なぜ父に声をかけられないのか本人にもわからないまま)、自分は沈黙していたのだ。長じて少年期になっても挨拶のできない子供であったのはずっと無意識下で父の死を受け入れていなかったのだということに気づいて、云々。


(*2) 「存在しない死体」とは自分の死体。人は自分の死体を見ることはできない。「死体でない死体」とは肉親や愛する人の死体。


*  *  *

 後半(第3章)の「虫が教えてくれたバカの壁」も興味深い話で、長時間だが中だるみのない見応えのある番組であった。しかし、中盤(第2章)の編集には異議あり。

 北里大での講義のシーン。この日は1学期の最終日で学生に「自分の生活を見直す」というテーマでレポートを書かせるのだが、明確な設問・課題の無い作文に戸惑う学生が多いという紹介に続き、「(養老氏は)最近の学生は自分の考えにこだわり相手の話に耳を傾けないことを心配している」という、この場面とは無関係に思えるナレーションが入る。

 レポートを回収し終えてがらんとした大教室で、残っていた数人の学生にインタビュアーが問いかけると、女子学生が「定義がわからないことが多い。『同じということと違うということは等価ではない』というとき、『等価』の定義がないと等価であるか否かは言えない」云々と授業の感想を言う。これに対して養老氏は「定義は言葉全体の中で決まる、一個の言葉をかっちり決めることは難しい」とか「言葉のやりとりを通して意味は修正されていく、それが対話の妙」、「(一義的な解釈しかできない文言をよしとするような発想は)公文書、法学部向きのものだ」と苦笑しつつ反論する。学生は一歩も退かず、「やりとりのなかで修正していくにせよ、まず最初の定義が」とか「一義的にしか解釈できないようなのがいいというわけではなく、自分の考えを正確に相手に伝えるためには言葉の定義を共有して」云々と、言い返す。

 冒頭書いたように、私は養老氏の用語法・話の運びには疑問を抱いていたのでこの学生の感想には我が意を得たりの感があった。著書(文章)でさえ大雑把に感じるんだから、ライブの講義では輪をかけてルーズな放談をしているものと想像される(笑)。大学教授の授業(話)としては、間違いなく面白いものだろうけど。

 養老氏と学生のやりとりは大変興味深かったのだが、しかし、その後がいけない。

 場面変わって養老氏の自宅。あれこれ感想を語りつつレポートの採点をする養老氏。ややあってインタビュアーが教室での対話に話を向けると、養老先生、「あれはなんかの原理主義を感じる。一種の学問の敵だね」なんて決め付けちゃうのである。ご丁寧なことに画面には、

 「原理主義 一種の学問の敵」

 とでっかい見出しスーパーが挿入される。

 なるほど、教室のシーンでの「最近の学生は自分の考えにこだわり相手の話に耳を傾けない」というナレは、あの女子学生との対話に繋がっていたのか。「学問の敵」とは手厳しい。しかし。学生は養老先生相手に一歩も退いていなかったが、ちゃんと相手(養老氏)の話に耳を傾けていたぞ。あの対話においては、むしろ養老氏のほうこそ「自分の考えにこだわり」、相手(学生)をやり込めようとしていたのではないか?

 どちらが「自分の考えにこだわり相手の話に耳を傾け」ていなかったかはさておき。このV編集はひどい。後から一方的に、しかも公共の電波で批判されては学生の立場がない(反論の機会がない)。これは養老氏の責任ではなく編集上の(NHKのディレクターの)問題だが。養老氏の「学問の敵」発言を放送で使いたいなら、もう一度学生と体面させてその場で言ってもらうべきであった。件の女子学生は大教室の最前列に座っていたので、もしかしたら養老氏とはそれなりの信頼関係があって、TVでこういう批判をされても平気な人なのかもしれないが。

 全体としては大変良く出来た番組だっただけに、配慮に欠けた編集が惜しまれる。



 アップロード前にリンクのチェックをして、今月8日にアンコール放送されていたことを知った。好評だったらしい。確かに良い番組だったが、第2章の編集(「学問の敵」部分)に疑問を持つ人はいなかったのか? 

 検索してみた。似通った意見を一つ発見(Vの編集ではなく、学生に対する養老氏の態度を批判)。下にリンクしておく。

 ・ 養老孟司氏の授業15分間大学改革研究



2013-01-26追記:上掲記事がサイトごと消滅してしまったので、Internet Archiveから引用しておく。

また、この授業(試験)が終わった後で、最前列に座っていた女子学生と養老氏が交わした会話の様子が映されていたが、そのやりとりおよびその場面の番組での位置づけも驚くべきものだった。その学生は、養老氏の授業は言葉の定義がないためよく分からないと言っていた(例として「等価」を挙げていた)。それに対し、一つの言葉の意味は文脈の中で決まってくるので、あらかじめきちんと定義することはできないし、それができると考えるのは間違っていると養老氏は答えた。さらに、後で取材をしているスタッフから、先ほどの学生についてのコメントを求められて、ある種の「原理主義」を感じる、「原理主義は学問の敵だ」と答えていた。これを見たあの学生がどう感じたか、それを考えると心が痛む。

あのテレビに映されたことだけから判断するのは危険なことだと思うが、私はあの学生の言っていることの方がまともに思えた。それにうまく答えられずに、相手を原理主義者、学問の敵にしてしまった養老氏はまさに氏の言う「バカ」になってしまったのではないだろうか。

あの学生とのやりとりが映される前の試験最中の場面で、「最近の学生は自分の考えにこだわり、相手の話に耳を傾けないことを心配している」との養老氏のコメントを紹介していた。その後で養老氏自身のそうした姿が映されたのは皮肉なものだ。

田中浩朗 | 2003/09/07 07:53

15分間大学改革研究: 養老孟司氏の授業


追記 (2003-11-25)
 ちょっと文章修正。



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