読書

△目次   ▲トップページ  

  • 9月25日の近況雑談に大幅加筆。長文のため独立ページとした。


 2001-09-28  本の再読(『イワンのばか』他)

 友人と電話で雑談。子供の頃に読んだ物語や耳に馴染んだ音楽が、年月を経ると違った相貌を見せることについて。
 名作は何度も読み返すとよい、年代に応じて新たな発見があるものだとはよく言われることだが、この友人は子供の頃読んで感動した『幸福の王子』(オスカー・ワイルド)を最近再読して、王子とツバメの仲に歪んだ依存関係を発見してしまったんだそうな。大人になるというのは、悲しいことである。
 この話を聞いて私も「感動的な物語に潜む微かな毒……寓意は別のところにあるのかも」などと穿った感想をほざいたりしたのだが、オスカー・ワイルド⇒皮肉という連想だけでこんなコト言っちゃう大人というのも困ったもんである。

  『幸福の王子』はWEBで読める。 → オスカー・ワイルド『幸福の王子』結城浩氏訳)


 数年前、『星の王子さま』(サン=テグジュペリ)を再読した。小5の頃読んで特に感銘を受けるということもなかったのだが、大人になってから読むと味わい深い。というか、小学校高学年程度の学童ではこの物語の寓意を掴みきれないように思える。例えば、王子さまの星に一本だけ咲いているバラの花のことを、小5の私はわがままで嫌な奴だとしか思わなかった。これは私の精神の成長が人より遅かったからだろうか。

 『イワンのばか』(トルストイ)を8年ほど前に岩波少年文庫版で再読した。この本には「カフカースのとりこ」という短編がおさめられている。タタール人に捕らえられたロシア軍士官が異民族の山村で虜囚として暮らしやがて生還するという実話ドキュメントのような話。子供の頃読んだ記憶はない。この短編集は「人の幸せとはなにか、信仰とはなにか」を寓話に託して語る、全体に宗教色が強い本なのだが、その中でこの一編は異彩を放っている。

 「カフカースのとりこ」を翻案し物語の舞台を現代のチェチェン紛争におきかえた「コーカサスの虜」という映画を98年2月にNHK教育TVで観た。
 捕虜となったロシア軍兵士(主人公)は時に深い霧に包まれる山深い村で、ロシア軍に家族を殺された老人の憎悪を知り、村の童女の無垢な心にも接する。原作とほぼ共通するこの設定・逸話部分の描写は緊張感を保ちつつも、異文化交流ののどかさも漂わせている。一方、都市部に駐屯するロシア軍の、戦いに倦み退廃した日常の描写は荒涼としている。虚ろな目のロシア軍兵士が店に入ると陳列棚には何も無くカウンター奥の棚に数本のウォッカが置いてあるのみ。1本のウォッカの代価としてカウンターに無言で置かれた兵士の拳銃はやがて村の老人の手に渡る。人質交換交渉は決裂し、憎悪と報復の連鎖は山奥の寒村にまで這い上がってゆく……。

 映画を観た後で「カフカースのとりこ」を読み直してみた。捕らわれた主人公の恐怖やタタール人の敵意と憎悪が、命をもった人間の生々しい感情として感じられる。以前読んだ時は、例えば、 (山のふもとの老人には)「むすこが八人いたが、(略)ロシア人がやってきて、村をぶちこわした上、むすこを七人まで殺してしまった」(p.288) という記述も、その出来事を惨劇として頭に思い浮かべることはなかった。

 子供向けの平易な文体と淡々とした記述で和らげられてはいても描かれているのは人間の営みであり、恐怖や憎悪、欲望は現実を映したものだ。話のあらすじを追うだけの浅い読み方をしていてはいかんなあと反省。勢いで「イワンのばか」もあらためて再読してみた。手にまめを作り額に汗して働く者を礼賛するこの滑稽な寓話は、冷酷な現実に懸命に抗い、人々がよりよく生きられる世界を願って書かれたものだろう。
 その主題はさておき、

 「兵隊どもはびっくりして、王さまの言いつけたとおりにしました。家や麦をやき、家畜をうち殺しにかかったのです。ばかたちはやはり手むかいもしないで、ただ泣くばかりです。おじいさんも泣けば、おばあさんも泣き、小さな子どもたちも泣くのでした」 (p.53)

 と物語るトルストイの、眼前の現実はどんなものだったのだろうか、という新たな思いが頭に浮かんだ。

 私の前には別の、しかしたぶん似通った現実がある。その現実の大半がTVという小箱を通したものだから私はこんなに平静でいられるのだろうか、と思う。


 引用出典:『イワンのばか』(トルストイ、金子幸彦訳、岩波少年文庫版)、ルビは省略


訂正  映画「コーカサスの虜」の舞台はアフガン戦争ではなくチェチェン紛争。記述を訂正した。他にも若干リライト。(10-01)

追記  文章若干リライトした。(10-10)



目次    ▲トップページ