無駄話 
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 くらげ   


 三条大橋の袂で河川敷のアベックを眺めながら友人を待っていると、
橋の反対側に人だかりができ始めた。皆夜空を見上げている。
 つられて彼らの視線を辿ると、地上15メートルほどの所に白い、不
定形の塊がふんわりと浮いている。
 「なんやの、あれ?」
 「気持ち悪いわあ」
 しばらくして、学生風の男が「あーなんや、コンビニの袋やんか」と
声を上げる。風をはらんで舞い上がったポリ袋が、上空の風の加減で静
止状態になっているらしい。男の声に呼応したかのように、それはゆっ
たりと宙を漂い始めた。正体がわかって関心を無くした人々が足早に去
ってゆく。
 眼下のアベックよりは面白い。私はそのまま眺めていた。それは右に
左に漂いながら少しずつ高度を下げている。数分後、橋の上空を横切り
私の頭上を越えたところで突風を受け、急降下して私の足元に滑り降り
て来た。
 Gパンのふくらはぎに絡みついたそれを手に取ると、極く軽くパリパ
リした手触りだが、ポリ袋ではない。円形の、それも立体裁断された油
紙のような、あるいはクシャクシャに折り曲げてから広げた饅頭笠のよ
うな……なんだかよくわからない物だ。全体に白っぽい半透明なのだが、
中央付近にマンジを組み合わせたような薄青の模様が入っている。
 街燈の下まで行ってしげしげと眺めてみたが、材質の見当さえつかな
い。
 いくら見つめても埓があかない。また元の場所に戻ってアベックを眺
めながら指先でもてあそぶ。乾いた感触が面白い。
 パリ、カサカサ……ん、表と裏で微妙に手触りが違うな……カサ
 「おいおい、いい加減にしてくれ」
 友人が来たのかと思い振り向くが、誰もいない。
 「こら、そんなに強く握るでない!」
 頭の中で声がしている。いや、これは……この妙な油紙の声か?
 「儂はトンチンの東ユエヤンのリという者だ。32の時妻子を亡くし、
神仙の道を志してロンシャンに篭ったのだが……てれぱしぃ? なんだ
それは?……練丹の術を極めもう一息で……狂ってないって。毒電波と
はなんだ? こら坊主、ちょっと黙って儂の話を聞け!」

 李さんは仙骨に恵まれていたとかで、わずか200年ばかりの修行で
地仙に匹敵する域に達したという。ところがその異例の上達ぶりに嫉妬
した邪仙に術をかけられ、命からがら故郷のトンチン(洞庭)湖まで逃
げ延びて最後の力を振り絞って湖中に隠遁した。
 この時、慌ててクラゲなんぞに変化したものだから術を解くことがで
きなくなり、以来100年ほど長江、黄海、東シナ海のあたりを無為に
漂うはめになった。
 最近、台湾近海を漂流していると、功徳を積んだ鉢虫類は毎年晩夏、
日本の若狭湾に集って仙化する、という噂が耳に入った。そこでダメモ
トで若狭湾まで漂って来たのだが、しょせん実のない噂話に過ぎなかっ
たのか、はたまた海岸に上がる時期を間違えたのか……仙化できぬまま
カラカラに干からびて風に吹かれて山野を転がり、昨暁、鞍馬山を越え
て京都市内に入った、のだとか。

 「はあ、それは、大変っすね」
 「おまえ、冷たい奴だな。言うことはそれだけか?」
 「んなこと言われても……ボクにどうしろと?」

 邪仙の仕打ちは許せないが、50年ほど海面を漂ううち驕って妬みを
買った自分の非に思い至った。今はすべてを忘れ一から修行をやり直し
たい、それがかなわぬならばせめて故郷で……こんな海を隔てた異国で
油紙扱いされて朽ち果てるのでは無念だ、と言う。

 「だからあの〜、ボクにどうしろと?」
 「ほれ、この先に白い塔が見えるだろ」
 「京都タワーっす」
 「あれに登れ。あれのてっぺんに儂を連れて行け」
 「え〜? もうタワーの入場時間過ぎてますよー。それに、てっぺん
になんて登れないっす!」
 「そこは儂がなんとかする。術は使えずとも知恵はあるぞ」

 確かに、なんとかなった。これはもう時効だと思うが、ちとヤバ過ぎ
るのでどうやってタワーの頂上に登ったのかは割愛する。思い出したく
もないことだし。

 「んむ。先ほどは失敗したが、ここからなら東風に乗れそうだ」
 「あの〜、海を越えて中国大陸まで行けたとして、どうするんです?」
 「地に帰る。儂もそこそこ善業を積んでおるからな、いずれ人間に転
生する機会もあろう。では坊主、さらばだ!」


 出荷伝票を整理しているところに客が来た。
 「あ、ここは倉庫だから、注文なら営業部のある向かいのビルに行っ
て下さい」
 「ア……ソウトクフ……アリマスカ?」
 ソウトクフってなんだ? 問い返したがどうも日本語がよくわからな
いらしい。お引き取り願おうかと思ったが、真面目そうな青年だったの
でとりあえず中に入ってもらう。カタコトの英語と漢字の筆談で事情を
聞いたところ、彼は台湾から来た留学生で、日本統治時代の台湾総督府
の資料を探しているとのこと。念のため目録を当たってみたがウチでは
関連する書籍は出していない。
 出荷を終えた直後で暇だったのでしばらく雑談することにした。
 キラキラした綺麗な目をしている。日本の学生とは全然雰囲気が違う。
しかし、バイト先や町中でいろいろ嫌な目に遭って、この人もじきに険
しい目つきの大の嫌日家になって国に帰って行くんだろう。
 ふと思い付いて、台湾の学生運動事情について聞くと、あちらではま
だマルクス主義の影響が強いんだとか。
 「まるくす……きんぐダヨ」
 と言ってメモ用紙に「王牌」と書く。この御時世に、しかも毛思想の
中国と対峙する台湾でマルクスがねえ。意外。
 雑談が途切れたところで図書総目録を調べ、日台関係の本を出してい
る近場の出版社を教えて送り出した。
 青年を見送る時、彼のうなじに大きな青い痣があるのに気付いた。マ
ンジを組み合わせたような模様に見える。

 20年前三条大橋で待ちぼうけをくわせた友人に、久しぶりに電話を
かけてみることにした。長距離の私用電話は御法度だがかまうものか。
仙人との再会なんて、人生にそう何度もあることではない。

【96年08月25日】
(99年03月10日リライト)


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